「地震に対して、建物は固い方が良いのか、柔らかい方が良いのか」
日本の構造設計が暁を迎える頃、そんな議論が行われていました。
時代背景は、関東大震災(1923年、大正12年)から昭和初期にかけて
いよいよ鉄筋コンクリートの建物が建ちはじめた頃でした。
まずこの話をする際に紹介しなければならない人物が二人います。
一人目は、佐野 利器(さの としかた、1880年-1956年)
東京帝国大学教授、帝都復興院理事、東京市建築局長等
「家屋耐震構造論」(1915年(大正4年))で工学博士号を取得。
この論文は日本の建築構造学の基礎を築いたものと評され
建築構造の耐震理論構築としては当時世界初の試みでした。
二人目は、真島 健三郎(ましま けんざぶろう、1873年-1941年)
日本の海軍省建築局長、海軍技師であり、構造エンジニアでした。
日本の鉄筋コンクリート構造のパイオニア的存在です。
二人の立場を簡単に表すと
佐野は「建物はしっかり固めて建てよ」いわゆる剛派です。
対して真島は「建物は地震の力を受け流せるよう柔らかく建てよ」
「柳に風」といったところでしょうか。
関東大震災の直後、市街地建築物法(建築基準法の前身)を改正
ここで水平震度0.1という耐震規定が定められました。
この0.1という数字は、佐野が提唱した「震度法」に基づくものでした。
これに異を唱えたのが真島でした。
真島は建物と地震の共振現象を紹介したうえで、建物の固有周期が一律ではないのに
0.1で統一するのは危険であると言うのです。
真島は関東大震災で鉄筋コンクリート建物が大きな亀裂を受けたことなどを踏まえ
「西洋の耐震構造を地震大国である日本に持ち込むのはいかがなものか。
日本は五重塔のように長年地震に耐えながら建っている柔構造の被害が少ない。」
ということを主張しました。
これは現代の振動解析に通じる考えですが
当時は計算プログラムはおろか、電卓すら存在しない時代です。
波動は単純なものでしか計算できませんでした。
これについて佐野は「耐震構造上の諸説」(大正15年10月)で
真島の理論は単純化していると指摘します。
さらにこれに対し、真島が「佐野博士の耐震構造上の諸説を読む」(昭和2年4月)において
「一律に震度0.1で設計という考え方こそが単純化の極みではないか」と反論しています。
もうはっきり言ってこのあたりから論文は互いの批判合戦になっています。
しかもかなりけんか腰で嫌味たらしい言い方をしています。
そこに新星が登場します。
その人物は、武藤 清(むとう きよし、1903年-1989年)
彼は佐野の門下生として建築構造を学びました。ということは剛派ですね。
いくつかの論文で剛構造理論を展開し
「真島博士の柔構造論への疑い」(昭和6年3月)を発表します。当時28歳頃です。
この論文を受けて真島は
「柔構造論に対する武藤君の批評に答へ更に其の餘論(余論)を試み広く諸家の教を仰ぐ」(昭和6年5月)を発表します。
このあたりからもう収拾がつかない様相を呈しています。
しかしながらここから日本は戦争へと突入し、真島が海軍を辞めて論争は落ち着くことになります。
この佐野・武藤らによる剛派と、真島の柔派との論争を俗に「柔剛論争」と言います。
ところでこの柔と剛、建物にとってどちらが正解なのでしょうか。
…結論は「どちらかが絶対的に正解ではない」ということです。
双方の理論、考え方が現行の構造計算に反映されているのです。
ちなみに、剛派である武藤はその後
日本で初となる超高層ビル「霞が関ビル(昭和43年竣工)」の構造設計をすることになります。
この建物は、五重塔の構造をヒントにした柔構造であり
武藤は「超高層にはエネルギーの考えを取り入れた柔構造が適している」という結論に至ったのです。
このように、日本の構造設計技術は
先人たちの知恵と尽力の上に成り立っていることを忘れてはいけませんね。
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